Epoche IIの時代背景
第一次大戦と第二次大戦に挟まれた時期
Epoche IIは、第一次大戦終戦と第二次大戦終戦に挟まれた時期ですが、この時期はドイツ人は困窮に始まり、一時的な繁栄のあと、再び大恐慌が襲い、自分たちの生き残りという理由でソ連や東ヨーロッパを侵略し、ユダヤ人や東方の被占領地域の人々を徹底的に差別・収奪するという、まさに歴史の生み出した悪魔のようになってしまった時期として終わりました。ただ、蒸気機関車を中心とした鉄道の発展についてみれば、Epoche IIの中間期である1925年から1937年の間は、黄金時代といえたかもしれません。
巨額な賠償金とハイパーインフレ

1918年、第一次世界大戦がドイツ革命による王政の廃止とそれに伴うドイツの敗北によって終結し、1919年にWeimar共和国が発足しました。王国や大公国の単位で運営されていたドイツの鉄道は一元的に運営されるようになり、1920年4月1日にDR: Deutsche Reichsbahn が発足しました。国内は荒廃し、ヴェルサイユ条約で課された巨額な賠償金の請求とルール地域をめぐるフランスとの軋轢のため悪性インフレが発生し、ドイツマルクは 1923年1月に1ドル=7,525マルクでしたが11月には4兆2,000億マルクにまで暴落しました。

1ドル=4,200,000,000,000マルク!
のちにReichsbank総裁になるHjalmar Schachtのレンテンマルクの奇策が功を奏し、奇跡的にハイパーインフレは収束できました。フランスとの間は極めてギクシャクしていましたが、1924年、アメリカの銀行家C.G.Dawesの提唱したいわゆるドーズ案を各国が受け入れ、賠償金支払い方法が緩和されました。鉄道は当時国家財政の中で大きな部分を占めるものだったので、1924年8月にDRは改組され、公共事業体としてのDRG: Deutsche Reichsbahn-Gesellschaft となります。これは実際には戦勝国が賠償を取るためのスキームであり経営には戦勝国側のメンバーが口出しする形になりましたが、DRG社内では開発の活気が戻ってきました。
経済の正常化と忍び寄る大恐慌
いったん経済が回りだすと正常化は早く、Hjalmar Schachtは1929年6月 アメリカの銀行家、Owen D. Youngの賠償金低減案を受け入れ、ドイツの賠償金はようやく現実的なレベルに減らされることになります(現実的なレベルと言っても、59年間支払うことになっていましたが…)。このまま、経済的に安定した時代が続けばよかったのかもしれません。しかし残念ながら1929年9月、米金融界を大恐慌が襲います。
Embed from Getty Images大恐慌とナチス
アメリカで始まった大恐慌はたちまち欧州にも及びました。やっと一息つけるかと思った矢先また大恐慌に襲われたドイツ国民の不安を選挙の得票にうまく結びつけたナチス党は、1930年代はじめには福祉政策として様々な失業対策、景気対策と公共事業、労働者の余暇活動を提示して急速に支持を集めることに成功しました。こうして人々の期待を集めたナチスは、国民の熱狂的支持の中で徐々に独裁体勢を固め、1930年代後半にはその暴力的・人種差別的な本性を隠さなくなります。
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それ以降、ナチス・ドイツは「アーリア民族の生き残り」を前面に打ち立て、領土の東方拡大と奴隷的労働力の奪取を開始します。自分たちにとって不要な人間と考えたユダヤ人・障害者・少数民族の「追放」先として、1941年まではウラル山脈をこえたはるか東方やマダガスカル島への(将来の全滅の期待を織りこんだ)空想的な追放計画が検討されたらしいです。しかし戦況の悪化でこのような企てに実現可能性がなくなると、「最終的解決」という名の組織的虐殺がはじまりました。広大な領域に伸びた線路と夥しい車両を持ったDeutsche Reichsbahn(DRB)は、ナチス・ドイツと一体化し、目的遂行のために全面的に協力することになりました。この時期、異常なハイペースで達成できた輸送用車両の量産や占領地での線路の延伸や修復、設備の無い東部戦線での貨物の積替えは、とてもドイツの兵士や国民の力だけでできるものではなく、ユダヤ人の資産の収奪と、恐怖による支配でほぼ無賃金で死ぬまでこき使える東方の労働力の利用によってはじめて可能になったものといえます。
徹底的な敗北再び
1942年までナチス・ドイツは電撃戦によりヨーロッパからロシアまでの広大な領域に版図をひろげました。


しかし、1943年から守勢となり、1944年、45年と西からは連合軍、東からはソ連軍に押し返され、しまいにドイツ国内に爆弾の雨が降るようになり、鉄道をはじめとするインフラも徹底的に破壊されて1945年に敗戦を迎えることになります。
ドイツ鉄道の戦間期
1920年代初期の車両開発
1920年代初期のドイツは経済的にどん底の状態でした。戦後はまず第一次大戦前までに設計されていた車両を製造しましたが、戦勝国に賠償として渡ったものも多く、これはのちにドイツ系の車両が多くの国で見られた理由の一つです。
1920年代初期、DRでは軽量な全鋼製の小型2軸客車が設計されました。重量のある木製客車より軽くして燃費をよくするのが目的でしたが、居住性は劣悪、極めてうるさかったのでDonnerbüchse(雷箱)というあだ名になりました。
D-Zug用の大型客車では、アメリカで開発されたSchwanenhals Drehgestell(白鳥の首型の釣り合い梁を持つイコライザー台車)を履いて、王国鉄道時代に建設されたLanderbahnの急カーブでも見通しよく運用のできる HechtwagenタイプのC4ü-22 が開発されました。この頃の鋼製客車はまだ溶接ではなくリベット打ちでした。
DRGでの車両開発-制式機関車と新しい標準台車
戦後の混乱からの復興と並行してDRGでは車両の新設計・開発が始まりました。第一次大戦中、機関車の仕様の不一致に悩み標準化を強く志向した Wagner は、優秀な機関車設計者 Meister と大胆な標準化計画を実行に移し、早くも1925年には、「制式機関車」として名機BR01を生み出します。
客車に目を移すと、Schwanenhals Drehgestellでは高速化に限界があったので、ドイツで高速台車を開発することになります。台車の設計コンペで勝ち抜いたのはSchlesien地方に近いGörlitzのメーカーWUMAG(Waggon und Maschinennfabrik AG Görlitz)でした。彼らが開発した重ね板ばねとコイルばねを併用したGörlitz II 台車はDRGが外貨獲得の望みをかけた豪華列車Rheingoldの客車の台車として採用され、その後も改良を重ねてGörlitz IIIシリーズはEpoche II期間を通じて多くの客車の標準台車になり、1930年代後半の鉄道高速化時代の客車を文字通り支えることになります。


インフラの整備
高規格路線
DRGでは幹線の線路が耐える軸重を20tに増す計画を実行にうつしました。これにより粘着性能のよいBR01やBR44などの大型の制式機関車が使える線区が増えました。
電化の実験と統一規格の決定
Bayern地方の先進的な私鉄やSchlesien地方では1800年代末から1920年代まで、市街地のみで運転される市電や地方私鉄を中心に様々な電化方式が試されました。長距離鉄道の電化についても、1899年から1905年の”StES”(電気高速鉄道調査会社)での経験が蓄積されました。その結果、1922年に長距離鉄道用には15,000V 16 2/3Hzで電化することが決定されました。Bayernでは水力のみで発電し、他の都市では川の近くに火力発電所を作って発電しました。電気機関車は、1924年には4動輪ロッド式のE52, 1925年には6動輪3連接式のE91が実用化されます。
信号機・安全技術
信号・安全技術面では、腕木式信号機や初期の色灯式信号機の指示・運用ルールを定めたSignal Buchが制定されました。制御技術面では、1927年にIndusiが実用化されました。 これは、500Hz, 1000Hz, 2000Hzの3つの周波数の交流を使った車上子・地上子の通信による自動制御のしくみです。地上子の上を通過すると、信号機の表示状況を機関車上に伝達し、機関士にベルで赤信号を知らせ、応答がない場合は自動で緊急ブレーキを作動させるものでした。電化が行き渡ってなかった当時、電磁誘導を利用することにより地上側設備に電源が不要という画期的なものでした。
標準設計のEilzugwagenやSchnellzugwagenの開発
本線用の4軸客車は、Görlitz III leicht 台車の開発と大量採用によって、速度と乗り心地が改善されていきました。1930年には標準設計のEilzugwagen C4ü-30(3等車の車端部2つドア、ステップのために車端の幅が狭くなっている)が作られました。客車は1934年頃まではリベット打ちでしたが、1935年には、スムースな溶接車両Schnellzugwagen C4ü-35(窓台が低く大きい)が実用化されました。
DRG内へのナチスの浸透と車両のマークの改変

1930年代を通じ、DRGの内部でもナチ化が進みました。1937年にWitteがナチス党員になり、のちにWagnerの席を奪うことになります。同じ1937年、ナチスは会社組織だったDRGを再び国営に戻します。それまで客車には真鍮色の丸いDRGマークがつけられていましたが、この頃、機関車にも客車にも、輪の中にHakenkreuzを持ったReichsadlerのマークが一斉につけられました。
高速列車の開発
ドイツ北部では都市化と近代化が急速に進み、ディーゼル列車での高速の追求(Fliegender Hamburger) と、蒸気機関車でのビジネス特急(LBEやHenschell Wegmann Zug)、またBR05型での最高速チャレンジなどが相次いで行われました。1938年には高速電気機関車E19も開発され、Munchen-Berlin間の電化区間で時速180km運転を実施する予定でした。
この時期の高速蒸気機関車は流線型カバーをかけたものが多くなりましたが、1938年には客車も高速化のためにより空力を意識した Schürzenwagen が出てきました。床下にSchürze(エプロン)がつき、Pufferの上までボディがせり出し、連結部への空気の回り込みをへらす、今で言うフラッシュサーフェス化が進みました。
ナチス・ドイツにとって世界最高速を出せるドイツの鉄道というのは、国威発揚と宣伝のための良いツールでした。このためDRG/DRBの高速鉄道開発陣とナチス・ドイツの狙っている方向は、1939年までは一致していたようです。
ところが、1939年、ナチス・ドイツはポーランドへ電撃的に侵攻をはじめ、第二次大戦がはじまりました。これと同時にRheingoldなど豪華列車を含めすべての高速鉄道の運転は中止されます。

BR05とE19とSchürzenwagenが出揃って、これからが高速鉄道の時代だと思ったら、戦争突入で運転中止、その後は恐怖と収奪の時代に突入します。
ナチスの鉄道への関与とDRBの戦争協力
1937年、ナチスにより再び国営にされたDeutsche Reichsbahnを、ここではDRBを呼びます。
DRBは戦時国家システムの重要な一部として、ナチス・ドイツと軍事活動に深く関与していきます。BR05, E19,Schruzenwagenによる高速列車の運行計画はすべてポーランド侵攻で中止になりました。1941年の独ソ戦での補給と兵站の失敗で責められたWagnerは失脚し、その席にはWitteが座ります。
Wagnerが開発したBR50はWitteの手により徹底的に無駄を削ぎ落とし、材料の消費量と生産時間を極限まで削る設計を得て、Kriegslok(戦時型機関車)BR52として6000両以上生産され、東方への兵器、物資の輸送ならびにユダヤ人たちの死の移送列車の牽引機関車として利用されます。
この時期、通常では考えられない莫大な量の機関車製造が短期間でできたのは、強制力をともなった労働力の動員があったからに違いありません。
鉄道の軍事利用はとどまるところをしらず、「Gustav」「Dora」という名前のついた巨大な「列車砲」さえ作られました。「Gustav」は(2014年にまた紛争地域になってしまった)クリミアで、巨大な口径の砲弾の雨を降らせることになりました。
ユダヤ人の移送列車の運行

アウシュヴィッツ収容所には線路が引き込まれ、ユダヤ人が身動きも取れない粗末な貨車に詰め込まれてヨーロッパ各地から移送されてきました。ここで、その作業を担ったのはナチス・ドイツの組織に深く組み込まれたDRB職員の手によってでした。この事実は、ドイツの鉄道における「負の歴史」であり、戦争と収奪の歴史と鉄道の役割を考える時、私たちはこのことを忘れてはならないと思います。
Epoche IIの人物
Richard Paul Wagner
August Meister
Georg Heise
Friedrich Witte
Epoch IIの機関車(おもなもの)
Preußen P101
Preußen G10
Preußen G12
Preußen T18
Preußen T20
BR01
BR43(1927)
BR44
BR45
BR50
BR05
LBE Nr.1
BR61
BR52,BR42
Fliegender Hamburger
E18,E19
Epoch IIの客車
Donnerbüchsen(1921)
Hechtwagen(1921-1928)
Rehingold wagen(1926)
リベット打ちの4軸Schnellzugwagen(1929)
リベット打ちの4軸Eilzugwagen(1930)
溶接の4軸Schnellzugwagen(1935)
溶接の4軸Eilzugwagen(1936)
溶接のSchrüzenwagen(1939)
鴋澤 歩 「ナチスと鉄道 共和国の崩壊から独ソ戦、敗亡まで」NHK出版新書663 (2021) ISBN 978-4-14-088663-2






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