Georg Heiseのおいたち
Georg Heiseは1874年にBayernのLandshutで生まれました。
精巧な耐火金庫を開発した錠前屋・機械工の家に生まれたGeorg Heiseは、地元で金属加工の経験を積み、西部Eßlingenの機関車ワークショップで学んだあと、1899年に機関車メーカーHenschelに入社し、Michael Kuhn のオフィスに配属されました。その後、Kuhnが1903年に51歳で突然亡くなったとき、わずか29歳で彼の後を継ぎました。
オールラウンドな機関車開発
20世紀初頭から第二次大戦前までの期間、HeiseはKasselの機関車メーカーHenschelで多くの機関車を設計しました。彼は2気筒の貨物機から急行用4気筒機、さらに大型3気筒の制式機、そして流線型カバーをかけた新時代の快速ビジネス機にいたるまで設計し、まさに蒸気機関車の全盛期を生き抜いたといってよい機関車設計者でした。
1910年、Heiseは Preußische G10(のちのBR57)を設計しました。これは、Robert Garbeの考え方に沿った2気筒の過熱蒸気型の貨物用機関車で3000両以上作られました。戦時賠償で各国に分散しましたが、保守が容易だったため各国で長い期間使われました。
1914年、4気筒急行用機関車Preußische S101 (のちのBR1710-11)を設計しました。本機は4気筒で、保守は大変でしたが蒸気を有効利用し経済的でした。


Heiseは3気筒でパワフルなPreußische G12(のちのBR58)の開発にも携わりました。この機関車は第一次大戦期の1917年から21年にかけ、Henschelほかのメーカーで1000両以上が作られました。


1935年 Heiseは制式機関車として当時最大最強の貨物用機関車BR45を設計しました。
高速ビジネス列車用蒸気機関車の設計
1935年以降、Heiseは、高速ビジネス列車用の蒸気機関車の開発に携わります。すでにFliegender Hamburgerなどディーゼル機関車での高速営業運転が始まっていました。一方でDRGや鉄道各社は世界的な経済危機を受け、輸入に頼る石油のリスクを感じていました。このため国内で確保できる石炭を使う蒸気機関車による高速列車を模索しました。都市間の高速往復運転で蒸気機関車を利用する場合の最大のポイントは機回しせず反復運転できること。そのためには、Tenderを廃し軸配置を前後対称にして、同じ速度でバック運転できるようにすることが求められました。
1936年 LBE Nr.1-Nr.3 “ミッキーマウス” 機関車
LBE(Lübeck-Büchener Eisenbahn)のビジネス列車は新技術の展示会のような列車でした。連結・解結や機回しなく往復運用するため、Wendezug運転は必須でした。それまでもBR78などを用いたWendezug運転は、制御客車での指示をワイヤーで最後尾の機関車に伝達・表示するといった方法で行われましたが、先頭の制御客車にいて指示を出す運転士と最後尾の機関車にいて指示を受け操作する機関士が別に必要でした。Heiseは限定的ながら客車から機関車をリモートコントロールする仕組みを開発しました。機関車にあるサーボモーターとローラーチェーンを用いた装置は、先頭の制御客車にいる運転手から電気的に制御できたのです。この機関車は牽引時も推進時も120km/hで運行できました。
1936年 Henschell Wegmann zug のBR61
独創的なLBEの列車に対し、DRGも同様な発想で、極めて高速なビジネス用列車を計画しました。DRGはBerlinとDresdenの間を最高160km/hで往復運転するこの特別列車について、機関車はHenschel , 客車は Wegmannに発注しました。Heiseはこの列車の機関車として、BR61の2気筒版と3気筒版を開発しました。
Heiseはこのほかにも、多数の外国向けの機関車の設計を行いました。
私が特に画期的だと思っているのは、なんといってもWendezug運転向けの遠隔自動制御の仕組みです。てことバルブの塊である蒸気機関車の制御を離れた制御客車から行うために新しい技術である電気の力を使うというアイデアに、現代の鉄道模型のデジタル制御に近いものを感じるとともに、Heiseの進取の気性を感じます。


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