August Meisterのおいたち
1873年、ドイツ系スイス人のAugust MeisterはスイスのWinterthurのSLMの機関車組み立て技術者だった父のもとに生まれました。
August Meisterは幼少期をスイスのPfungenで過ごしました。Zürich、Schaffhausenの学校を卒業した後、Meisterは SLM の設計オフィスで見習いを始めましたが、スイスには残らず1896年、23歳でドイツの機関車製造に転向しました。さまざまな会社で短期間雇用された後、1897年から、彼はEsslingenの機械工場でAugust Trickの下で働きました。
Borsig入社と Preußen P10機関車の開発
1903年にBerlinの機関車メーカーBorsigに入社、1912年には先のチーフデザイナー、イギリス人のCharles Kingのあとを継いで機関車のチーフデザイナーになりました。
1919年、Meisterは、Mittelgebirge(ドイツ中南部の1000m未満の丘陵地帯)で重い急行列車を牽引するための Preußen P10機関車を設計しました。のちにBR39と呼ばれることになるこの3気筒の機関車は、重い軸重に耐える高規格の線路を要求したものの、DRGの旅客用機関車としてはもっとも強力でした。


「HBE Tierklasse」機関車の実験プロジェクト
1921年、鉱石の採掘と輸送の中心地だったRubelandbahnでは鉱石輸送列車はラックレール方式で勾配路線を上り下りしていました。スピードが遅く、メンテナンスが面倒なラックレール方式の廃止と通常の粘着方式で坂路を上り下りできる機関車の開発が喫緊の課題になり、実験チームが立ち上げられました。下はRubelandbahnで有名なスイッチバック方式になっているMichaelsteinの 1885年の建設時のイラストと、粘着式になった2006年の同じ場所です。


Meisterは、「HBE Die “Tierklasse” (動物クラス)」と呼ばれるMammut, Wisent,Buffalo,Elchとそれぞれ強そうな動物の愛称のつけられた4機のタンク機関車の設計を行い、Wagnerが所長を務めていたGrünewald機関車試験所で徹底的なテストを実施しました。
これらの機関車は、Preußenで開発された技術を用いつつも、デザインのいたるところに「来るべき制式機関車」の雰囲気をまとったものでした。写真左がその4両のうちの一つ、Mammut(マンモス)です。右はテストの結果を受けて開発・採用された Preußische T20 (のちに“Bergkönigin”(山の女王)と呼ばれたBR95)です。

マンモスよりでっかい女王様…


Meisterが設計した制式機関車
1922年、MeisterはBorsigに勤めつつ、すべてのドイツの機関車メーカーの技術者が配置された標準化オフィスの管理も兼務することになりました。ここで、Wagnerとともに歴史的な制式機関車の多く(つまり、のちによく模型化されることになる、戦後ドイツで広く使われた機関車たち)の設計を行います。
ここでは、従来の常識にとらわれない標準化が進められました。たとえばそれまで高速旅客用と重量貨物用では機関車の基本設計が別々で、末端の部品にいたるまで別々でした。これを、サイズや要求仕様ごとに整理しなおし、共通化できるパーツをできるだけ共通化することで生産効率と部品点数の削減を図りました。
制式機関車のスタイルが似通っているのはこの共通化のたまものです。
Meisterは旅客用高速機のBR01、重量貨物機のBR43,BR44をはじめとして、1920-30年代に設計、製造されたほとんどの制式機関車の設計にたずさわることになります。
私は、子供の頃から眺めていたMärklinのカタログで、Meisterが設計しEpoch III時代のDBで使われた機関車を眺めて育ちました。これらの制式機関車が標準化され、パーツの共通化が図られたにもかかわらず、各機関車のデザインが破綻せず個性をもちながらも機能美を発揮している点に魅力を感じます。


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