時代背景
第二次大戦による徹底的な破壊
第二次世界大戦でドイツの鉄道は駅・線路・車両などあらゆるものが破壊され、敗戦によって国土は縮小されました。さらに、連合国によって持ち去られた車両や設備も少なくなく、再びマイナスからの出発となりました。
Embed from Getty Images東西の分断統治
敗戦によりドイツは、連合国のうちの4カ国(アメリカ合衆国・イギリス・フランス・ソビエト連邦)によって占領されます。鉄道は占領地域毎に、その地域の占領国のコントロール下に入りました。その後1949年には米英仏占領地域が「ドイツ連邦共和国(西ドイツ)」として、ソ連占領地域が「ドイツ民主共和国(東ドイツ)」としてそれぞれ別個に建国され、ドイツは分断国家となりました。東ドイツ側では1949年に「ドイツ国営鉄道」(DR: Deutsche Reichsbahn) が発足、西ドイツ側では1951年に「ドイツ連邦鉄道(西ドイツ国鉄)」(DB: Deutsche Bundesbahn) が発足しました。ただし、飛び地のような西ベルリンの鉄道については全域で東ドイツ国鉄が運営しました。1949年、占領が解除されてからの時期をEpoche IIIとします。
政治・国際的なできごと
1950年から1960年にかけて東ドイツの経済状況は次第に悪化し、東ドイツ国民は毎日のように西へ去るようになりました。これを嫌った東ドイツ政府は1961年、ベルリンの壁を建設しました。それとともに、それまでつながっていた鉄道も、鉄条網で分断され、東西間は厳しい監視下の限られたルートだけが通行を許されるようになりました。
Embed from Getty Images西ベルリン居住者は西ドイツとの間を行き来するときに、東ドイツ内無停車のDR運営のInterzonenzug(ドイツ領域通過列車)に乗り、いったん東ドイツ内を通過することになりました。
西ドイツと鉄道
西ドイツ国鉄DBでは、戦争で荒廃した鉄道網の復旧を進めるものの、被害はあまりにも甚大で、その前途は多難を極めました。
戦前のドイツの鉄道網はBerlinを中心とした放射状路線でした。そして軍事的要請から東西方向の路線が重点的に整備されていました。このため戦後分断によって南北方向がメインになったDBの路線網の多くは亜幹線規格で、許される軸重は軽くスピードも出せませんでした。まずはこれを整備しなければなりませんでした。
DBでは電化の推進や、1957年のTEEの運転開始のような策を講じますが、西側諸国では国民には自動車や航空機の利用という選択肢もあったため、むしろ鉄道は競争力を失ってしまいました。また技術的にも、当初はEpoche IIの猛烈な開発の産物を利用するだけとなり、停滞しました。
写真は1952年のMünchen HBFにおけるBR5415-17です。Bayernで1899年から1909年の間に作られたEpoche Iの軽貨物機で、1’C 軸配置で65km/hしか出せないのに、Gruppe36と思われるEilzugwagenを牽いていますし、背景には年代物のPreußenのAbteilwagen(Nürnberg行きと書いてある)が見えます。使える物ならなんでも使おうという感じが見て取れます。


DBでの主なできごと
Epoche II の車両を用いてのF-Zugの運行開始
1950年代はじめまでに、ドイツ西部地域では必死の努力で戦争によるインフラ破壊の復旧を進めます。はやくも1946年12月にはHoek van HollandーBasel SBB間のRhein川沿いで、Epoche IIのSchnellzugwagenを用いたD-Zug(D164/163)が運行を開始できているようです。


その後、破壊から復旧した幹線上に、生き残った機関車と、なんとか使えそうなSchnellzugwagenを使って続々とF-Zugが走るようになりました。そういったEpoche IIの客車の中には、戦前の高速列車Henschell Wegmann Zug の客車を青く塗り直したものもありました。これは1953年から1957年までFD55/56 “Blauer Enzian”としてHamburg-München間を走りました。
蒸気機関車の新開発 DB BR23, BR65, BR66, BR82, BR10
1950年代、Witteが BR23, BR65, BR66, BR82といった最後の世代の蒸気機関車を開発しました。 中小型で前進・後退両用のBR23,BR65, BR82の活躍の場は郊外を中心にまだまだあり、多数が活躍しました。BR66は、極めて完成度が高かったにもかかわらず、V60やV100といった競合するディーゼル機関車の普及により量産されずに終わりました。
1957年、大型急行用蒸気機関車としてBR10が試作されました。この機関車は BR01, BR01.10, s3/6やBR39を代替することを意図して設計されました。軸重20tクラスの3気筒高速蒸気機関車として技術的には完成の域に達していましたが、BR10の使用対象となるような急行列車は、電化路線ならE10電気機関車、そうでないならV200ディーゼル機関車が牽引する時代がやってきており、それが無理でも既存のBR01やBR01.10がまだ利用できました。そんな中、BR10は新たに量産する合理性がなく、2両のみの生産で終わりました。
ディーゼル機関車の開発 DB V200, V60, V100, V160
V200(1953)は130両が生産され、急行旅客列車用にあてられましたが、この時期はBR01などの蒸気機関車がまだあり、路線が電化されたらE10などの電気機関車と競合してしまったため、1984年までにDBでの利用は終了しました。


V60(1955)は成功し、1,000両近く生産されました。のちに無線リモコン(鉄道模型のように外部から操縦可能)したり、自動連結器を装備したりして現在でも各所で活躍中です。
V100(1958)は360両生産され、支線の軽量旅客用、貨物用として使われ、現在も産業用で活躍中です。
V160(1964)は中量級の旅客・貨物向けの万能機関車として設計されました。後方互換性として当時必要とされた蒸気暖房も持っており、抜群の使いやすさのため量産され、バリエーションも増えて大ヒット作となりました。Epoche VになってもVerkehrsrotを身にまとい非電化区間のInterCity旅客列車や貨物列車の先頭に立つ姿が多く見られました。
主な電気機関車の開発 DB E10, E40, E41, E50
電気機関車についてはディーゼル機関車以上に基本設計を共通にし、部品の互換性を高めて、ニーズのt違いでギヤ比を変えることにより旅客用・貨物用さえ変更できるようにするという考えた方がとられ、戦後の標準型電気機関車が開発されました。
急行旅客用のE10(1952)と、その兄弟機でギヤ比を落として貨物用としたE40(1952)、制御室つき客車からの電子制御で推進運転を可能にして、Nahverkehrで機回しなく頻繁な往復運転を可能にしたE41(1956)、6軸の大型貨物用重量級機関車E50(1957)が1950年代に相次いで開発されました。これらはとてもよく似ています。


3軸のUmbauwagen 3ygと 台車付きのUmbauwagen 4yg
戦後DBに残されたのは、何千両も作られたPreußenとSachsenの3軸Abteilwagenや初期の20mクラスの4軸Abteilwagenでした。大量にあるがドアの数ばかり多くて使いにくいこれらの客車をできる限り低コストで再利用したかったDBは、中でも標準の長さ 13mの台枠と長さ19.46mの台枠を持つ車両を種車にし、下部構造はできるだけ再利用し、上部構造は現代のGroßraumwagen(一等部分はAbteil)として使えるようUmbau(再構築)する計画を実施しました。Chromoxidegrün(RAL6020)に塗られたこれらUmbauwagenはEpoche III を通じ 西側の郊外の地域交通を支える重要な「庶民の足」になりましたが、Epoch IVをすぎるころには老朽化が進み、急速に新型のディーゼルカーなどに置き換えられました。
Schnellzug用の26.4mのUIC-X客車の規格が定められる
1953年に、ドイツのみならず、欧州の戦後の標準客車の原型となるUIC-X客車のデザインが決まりました。欧州の客車としてまず思い浮かぶ、長さが26.4mで角の丸い日の字の形の窓が2等車なら12個並び、両端にトイレと出入り口があり、車端にはゴムを筒状にしたGummiwulstübergangがとりつけてあるというスタイルです。ヨーロッパではすでに二等級制に移行していましたが、Schnellzug用の二等Abteilには、やっとモケットのシートが与えられました。この設計は1961年に改良され、その後数千両におよぶB4üm(Bm234)の生産によってヨーロッパ中に普及しました。さらに、ほぼ同じ外形寸法で、エアコン完備とし、Schürzeを装備し、高速走行を可能とした優等列車用のGruppe63の客車が計画され、1963年にBR10.12によって牽引されるRheingold用としてデビューしました。
近郊型の26.4mのSilberling(n-Wagen)の斬新なデビュー
錆びる金属にペイントを繰り返すからコストがかかるのであって、ステンレスで外装を作って無塗装にすればランニングコストを軽減できるという発想で作られたのがn-Wagenでした。1958年から5,000両が製造されました。無仕上げだとあまりに無愛想なので機械式時計の内側などで見られるPerlschliffという研削加工で窓下の部分に独特の仕上げをしましたが、これは細かいキズを目立たなくし、規則的なパターンの上で連続的に変化する輝きをもたらして、Silberling(銀貨)というあだ名を獲得しました。当初の内装はUmbauwagenの内装に近いですが、さらに見栄えより実用に振った、えんじ色の合皮のシートのうえにコストダウン優先の鈍い真鍮色塗装のパイプが林立し座席上に荷物棚がごちゃごちゃ並ぶというものです。座席と荷物棚の関係は、戦前のEilzugwagenに似ていました。ドアは車端ではなく、車両のなかほどに2箇所設けられました。
TEEの運行
1950年代に入り、国際的に活躍するビジネスマンや富裕層が鉄道でなく航空機や自動車を選択するケースが増えてきて、各国の鉄道当局は危機感を共有しはじめました。彼らは、Trans Euro Express(TEE)という昼行の特別な国際特急を設定しました。国境駅での長時間停車や車内からの通信手段がないという問題に対し、出入国管理や税関検査などの手続きは原則として車内で走行中に行なえるようにし、列車によっては車内からの電話や秘書によるタイプなどのビジネス上の利便性追求を行いました。そのうえ、快適なアコモデーションを提供し、食堂車や車内の厨房からのケータリングなどのサービスを行いました。当初、各国の鉄道当局はTEE専用に車両を設計しました。基本色は窓ラインがBeige(RAL 1001)、窓下がPurpurrot(RAL 3004)とされ、全車1等席で、さらにTEE専用の料金が設定されました。各国で電化方式がまちまちなのと、まだ非電化区間が残ることから、当初TEEは気動車によるものが多くありました。西ドイツではVT11.5(BR601)がTEE用の気動車の代表的なもので、のちのInterCityの初期にいたるまで使われました。
Rheingoldの復活
DBでは1965年までに電気機関車牽引の列車で時速200kmを達成する目処をつけました。TEEで標準とされた、専用のディーゼルカー列車は、万能が要求されるゆえに特定の性能を引き上げることができず、ときが経つと編成全体が陳腐化してしまいます。これに対し、機関車+客車の構成ならば非電化区間があっても山岳路線があっても機関車だけ付け替えれば希望の性能が出せ、需要の変化や行き先変更にも客車編成を変えることで対応できます。DBではGruppe63のエアコン客車をそのときの最高性能の機関車と組み合わせる方式での名列車RheingoldをTEEに組み入れるよう要求しました。
当然、これは速達性を重視し機関車交換など鉄道側の都合による長時間停止をしないというTEEのポリシーに反し、DBとTEEとの間で紛糾しますが、DBは主張を通します。
こうして1963年、展望車や食堂車を持ち全編成空調完備の新造客車Gruppe63によるRheingoldがTEEとして走ることになりました。
1960年代のDB
こうして1960年代のDBは、郊外の庶民の日常使いは蒸気機関車と3yg、一方国際的に移動するビジネスマンには最新の電気機関車BR10.12とGruppe63客車による全車一等、エアコン完備という猛烈な格差が日常となっていました。
1970年München
Epoche IIIで開発された車両は、Epoche Vを迎えるまで40~50年くらい使われました。Epoche IIIは西ドイツといえども鉄道の懐事情は必ずしも良くなく、一度作った車両は塗装を替えながら長く使われました。写真は1970年のMünchenの駅です。前景にはまだ新しいUIC-Xの塗り分けのSpeiseraum付き2等車、背景にはBR118 と左側に戦前型のGruppe30とみられるEilzugwagenやSilberlingが見えます。


DBでの蒸気機関車の廃止
1976年の蒸気機関車禁止提案が施行され、1977年にDBの営業用の蒸気機関車は立て続けに廃止されました。
Dampf Nostalgyという考えかたが認められるのは1994年にDB/DRが統合して西の人が久しぶりに東にあったアクティブな蒸気機関車を見てからのようです。

当時の西側ドイツ人にとって機関車の煙は公害で、服が汚れる煙と匂いにコリゴリしていたんでしょう。
東ドイツと鉄道
東ドイツの置かれた状況
東ドイツ国鉄(DR)では、敗戦により、ソ連が複線のうちの片方のレールを懲罰的に持ち去っていってしまったため、大半の路線が単線であるというハンデがありました。ソ連の援助により、路線の復旧は進められましたが、この単線問題は後まで尾を引きました。西ドイツとは違い社会主義国家となった東ドイツでは、党の高官ならともかく、一般国民に移動の自由はなく自家用車の所有や飛行機での旅行は叶わぬ夢となりました。そのような事情で鉄道は多くの国民にとって最も重要な普段の足となりました。同時に、鉄道は国家の重要インフラと位置づけられました。技術レベルについては、1950年代までは、西ドイツ国鉄と大差ありませんでしたがやがて停滞し、西ドイツとの格差が広がるようになります。しかしながら、Epoche IIの遺産をそのまま使っていたわけではなく、連接台車を用いた2階建ての客車、Rekoと呼ばれる蒸気機関車や客車の再構築による性能向上、B-wagenやY-wagenといったSchnellzugwagenの開発、ディーゼル高速列車の開発は行われました。ただし、DRでは電化が進まず、1970年代終わりにいたるまで電化区間は全路線の1/10くらいしかありませんでした。
DRでの主なできごと
Doppelstockwagenの開発


1952年から角張った個性的なデザインの4両編成の連接式台車を持つ2階建て客車が作られ、通勤輸送に使われました。開発を行ったのはEpoche IIに台車で一世を風靡したGöerlitz工場を持つVEB(元のWUMAGが社会主義体制下で国営工場になった)です。アイデアの元になったのは1936年のGeorg Heiseの画期的なWendezugの技術を支えたLBEの革新的客車でした。
この連接式2階建て4両固定編成の客車は、東ドイツ国内のみならずチェコスロバキアやポーランドなど東欧諸国へ輸出されました。この引き戸を持つ角張った2階建て客車は後のDR/DB統合後、Epoche VやEpoche VIにRegioのみならずInterCityにまで広く使われることになるBombardierのDostoやTwindexと呼ばれる二階建て客車の祖先となります。
Rekowagen-客車の再構築


DB同様に、第二次大戦後、DRでも老朽化したPreußenとSachsen標準設計の2軸、3軸および台車つきのAbtailwagenが大量に余っていました。通勤用には1950年代にDoppelstockwagenが少量導入されましたが、とても需要を満たす状況ではなく、一方で使い勝手の悪い旧王国仕様の客車は余っていたので、DB におけるUmbauwagenように、DRも旧型の車両の再構築 (東ドイツでは”Reko”と呼ばれる)プログラムを開始しました。1960年代にRAW(Reichsbahnausbesserungswerk) HalbarstadtやRAW Potsdamで生産されました。
写真の3軸タイプはドアが片端にしかなく、引き戸になっています。Epoche IIIのDRの客車は引き戸のものが多いです。

出入り口の反対側の窓はトイレですが徹底した合理化のため一般窓と同じサイズです。
1970年代半ばには、客車の半数以上が Reko 客車になるほどでした。
Rekolok-蒸気機関車の再構築
DRの主要な動力車は1980年代末まで蒸気機関車でした。領土が縮小された東ドイツではもはやEpoch IIの時のようにルール地方やシュレージェン地方の良質な石炭を使うわけにはいきませんでした。粗悪な褐炭や亜炭でも燃焼効率を上げるようなしくみを組み込む必要がありました。このため1957年から1967年にかけて、大規模な蒸気機関車再構築(Reko)プロジェクトが実行されました。BR01、BR03、 BR03.10、BR39、BR41、BR50、BR52、BR58がプロジェクトの対象となりMeiningen、Chemniz、Stendal、Zwickauの工場で再構築が実施されました。これらの機関車をRekolokと呼びます。再構築には燃焼室ボイラへの換装と新しい高性能蒸気発生器の設置が含まれていました。機関車を見たときに、Rekolok かどうか識別できる特徴は、煙突の前にある台形のMischkasten(ミキシングボックス)です。


第二次大戦中に粗製乱造され品質の悪かったKriegslok BR52は、走行中の揺れが大きく燃費も悪いため西側のDBでは早々にスクラップにされましたが、東側ではRekoのための大切な種車として扱われました。Reko作業の結果、丁寧に作られた機関車以上の性能が出せるようになりました。
Schnellzugwagenの開発
B-Wagen
東側ブロックに組み込まれたDRでは、広くソ連の衛星国から中国にいたるまでの鉄道車両の運用を標準化しようとする組織 OSJDの標準に準拠したSchnellzugwagenとして1962年からB-Wagenを生産しました。VEB Waggonbau Bautzen工場によって生産されたので、Bautzen Wagenと呼ばれます。長さはUIC-XやUIC-Yより短く24.5m、幅は2863mmで、当時切り替えが検討されていたPuffer併用の密着自動連結器や、1524mmの広軌の台車に交換することができました。台車は950mm径の車輪をつけたGörlitz Vでした。窓は角の丸い日の字型の”Übersetzfenster”で幅1200mmありBm234などのUIC-X wagenに似ています。当初からGummiwurstwagenubergangを装着していました。内部は、二等では9つのAbteilがありましたが、レザーの座席は4人がけで、1Abteilあたりの定員は8人でした。B-Wagenは屋根が高く4250mmありました。これは屋根の中には圧縮空気による換気兼暖房システムを入れるためでした。

東側の客車は福禄寿みたいに頭でっかちという印象がありますが、屋根の中に機器やエアコンを収納するからなんですね…
1962年にBautzenで生産された48両の二等車Bgはすぐに東ドイツ内無停車のInterzonenzug(ドイツ領域通過列車)に使われました。1963年には27両のABgと21両のBgが納入されました。何千両もあったRekowagenと比べると僅かな数です。
Y-Wagen
1966年から生産されたY-Wagenと呼ばれるタイプは、幅が19mm拡大されて2882mmになり、車端がわずかに絞られました(といっても西側の客車を見慣れている目からは箱型な印象が強いです)。一等車 Age 22両 一等二等合造車 ABge 66両 二等車 Bge 142両が製造されました。

一般人がSchnellzugwagenを利用することが少ない東側では、外国要人などが使うため、全体の生産数のわりに一等車の割合が多いのかな…
DBのSilberlingと同じようにステンレス鋼製を試した Type Bgも試作されました。
高速気動車列車VT18.16
1963年から国際鉄道路線における東ドイツの威信を高める目的で開発された気動車急行で、VEBの Görlitz車両工場で製造されました。国威発揚系の車両はわずかしか作られないのが通例ですが、VT18.16は8編成(1編成4両)に加えて、追加の中間車が6両、予備電源車が2両製造され、実運用を考慮した配備だったことがわかります。スカンディナヴィア、オーストリア、チェコスロバキアへの国際線に投入され、特にPrag経由Wien行きの「Vindobona号」として1979年まで利用されました。


ソ連のディーゼル機関車の導入
M62ディーゼル機関車(愛称:Taigatrommel =その騒音からタイガの太鼓、ポーランドでの愛称:Gagarin ):旧ソビエト連邦の現ウクライナのルハンスクディーゼル機関車工場で製造された重量貨物列車用のディーゼル機関車です。東ドイツへは1966年から1978年にかけてDRに378両、その他産業鉄道に18両が納入されました。DRの車両は当初V200形と呼ばれていました。 軸重と振動が大きく線路へダメージを与えてしまい、電気暖房システムが無いため客車列車に使えないものでしたが、貨物列車には使われました。
BR130系列ディーゼル機関車(愛称: Ludmilla): 1970年から1982年に旧ソ連から東ドイツに輸入され DRにより旅客および貨物輸送用に使われたディーゼル機関車です。合計 873 両の機関車が導入されましたが、中でも電気暖房システムと 120 km/h の許容速度を備えたBR132がよく使われました。使い勝手が良かったため1994年のDB統合後もBR232の名で重量貨物機として利用されています。
国家安全保障と鉄道
東側ではかなり後まで鉄道は国家安全保障の一部という考えが根強くあり、DRの駅や施設のセキュリティは、内務省の一部である運輸警察が担っていました。このため、DR では、ポーランドやロシアと同様に、1970 年代半ばまで、写真撮影は原則禁じられていました。畑暉雄氏の「ドイツの蒸気機関車」では1973年に日本と東ドイツの国交樹立直後に機関車撮影に行くという計画を立てた畑氏が感じた、当時の東ドイツのピリピリした雰囲気を感じることができます。
畑暉男「ドイツの蒸気機関車 SLゼロワン撮影紀行」ブレーン出版(1990) ISBN 4-89242-721-7




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