人物-Wagner(1882-1953)

Person
"DRB 50 008 links Dresden Werner Hubert" via Wikimedia Commons, Public Domain

Wagner のおいたちと経験

「ワグナー式除煙板」と呼ばれる大きな除煙板の名前とともに記憶されているRichard Paul Wagnerは1882年、ベルリンの運送業者の息子として生まれました。彼は王立Charlottenburg工科大学に入り、1906年3月の試験で交通機械工学分野の学位を得ました。1909 年春、Preußen邦有鉄道に入社し、国家試験にクラス最高の成績で合格しました。

第一次世界大戦中、鉄道連隊での仕事をしていたWagnerは、1800年代に各王国鉄道で別々に開発されてきた機関車の扱いに困っていました。戦中、機関車は開発元から遠くの地域で使われることが多くなっていましたが、それらが故障時に必要とする部品は千差万別で、開発元のメーカーに発注しなければならないうえ、修理拠点では途方もない数の部品を在庫しなければなりませんでした(1924年にDRGが成立したとき、扱っている機関車の種類は210形式に及んだそうです)。

Wagnerの考え方

第一次大戦時の経験から、Wagnerは全国で統一された、規格の定められた部品を使う制式機関車の開発を強く志向するようになります。彼の狙いは、機関車の種類をできるだけ少なくすること、派生型や特別型を避けること、異なる種類の機関車の間でもできるだけ互換性のある部品を使うことでした。多くの部品を標準化すれば、それさえストックしておけば全国どこで故障しても修理することができるようになります。

この考え方はさきのRobert Garbeの「よい機関車は田舎の鍛冶屋の小屋でも修理できる」という言葉と通じるものがあります。

1920 年、Wagnerは、BerlinのGrünewald機関車試験所 の責任者になりました。

複式4気筒を嫌ったWagner

“Barrenrahmen” by Fritz-F Licensed under CC BY-SA 4.0 / No modified

Wagnerは、Bayern の s3/6型でその性能を高く評価された4気筒複式蒸気機関を嫌ったようです。たしかにTriebwerkがすべて動輪の外側にあり内側には車軸だけが通っている2気筒機にくらべ、4気筒機は車輪の間にクランクがありそこに二組のInnentriebwerkがあります。保守のためには車輪の間の狭所に入る必要があり、作業が複雑かつ危険であることは容易に想像できます。

写真はNürnbergの交通博物館にある s2/6の車輪の間の4気筒のInnentriebwerkですが、2200mmの巨大な動輪はむしろ珍しく、普通の4気筒機ではもっと狭いところで保守作業をすることになります。

制式機関車の開発

1922 年、Wagnerは機関車の標準化のための特別委員会のメンバーになり、1923 年には、機関車の設計部門の責任者に任命されました。

1925年から翌年、WagnerとAugust Meisterのチームは2気筒のBR01と4気筒のBR02という新たな制式機関車を同時に開発し、テストしました。最初の制式機関車にもかかわらず、扱いやすいうえ高速だったBR01は231両が作られ、Rheingoldなどの豪華列車の牽引にも使われ「ドイツを代表する蒸気機関車」になりました。写真のBR01は、誕生当時と同じ大型の”Wagner式除煙板”をつけています。

“01118 Koenigstein” 27. Mai 2007 by Eva K. Licensed under CC BY-SA 2.5

一方、10両が作られたBR02は、4気筒機の経験のある保守技術者にしか扱えないためHofの機関区だけに集められたうえ、後年2気筒に改造されてBR01に編入されてしまいました。結局、整備の難しかった複式4気筒機はWagnerの考え通り、扱いづらい代物だったのかもしれません。

ちなみに、2022年にはこの「幻の」 BR02型のモデルが、BRAWA社から発売されました。機関車の車輪の間に入り時間に追われてメンテナンスしないで良い現代、なめらかに動くInnentriebwerkをじっくり鑑賞しながら歴史の彼方に想いをはせてみてはいかがでしょうか。

Wagner式除煙板

Wagnerの名は1920年代の標準蒸気機関車(開発当時のBR01など)が装着していた左右に大きく立ち上がる「Wagner式除煙板」の名としてもよく知られていますが、大きな除煙板は当時の制式機関車の標準装備であったものの、彼にちなんで正式に命名されたものではないようです。

蒸気機関車世界最高速への挑戦

当時、ナチスが政権をとって国家主義が強まっていたドイツのみならず、各国で鉄道の高速世界記録を出すことで国威発揚するムードがありました。DRGではすでに電気式ディーゼルカーSVT137 (Fliegender Hamburger)で高速営業運転を開始していましたが、当時のディーゼルカーの出力に対応するには軽量化が必要で車幅が狭く、客室のある車両の中に騒音源があり居住性はよくありませんでした。そこで蒸気機関車と客車という居住性の良い組み合わせで、豪華に超高速運転するというテーマが浮上したのでした。Wagnerはこのための機関車BR05の開発を行いました。1936年5月11日、 BR05 002 によって 蒸気機関車の世界記録200.4km/hを達成しました。

写真はWagnerが開発したBR05 001です。

“Bundesarchiv、Bild 102-16693” March 1935 Licensed under CC-BY-SA 3.0

独ソ戦と解任

1939年のポーランド侵攻にはじまる第二次世界大戦で高速列車の運行はすべてストップされ、Wagnerは1941年の独ソ戦でDeutsche Reichsbahnが兵站と補給が満足に行えない状態になってしまった責任の一端をとらされる形で、Deutsche Reichsbahnの機関車設計局局長を解任させられました。後任はWitteでした。

“Richard Paul Wagner” by Matthias Süß Licensed under CC BY-SA 3.0

参考文献

鴋澤 歩 「ナチスと鉄道 共和国の崩壊から独ソ戦、敗亡まで」NHK出版新書663 (2021) ISBN 978-4-14-088663-2

写真のタイトルをクリックまたはタップしてもオリジナルページが表示されない場合は、右クリックまたは長タップしてください。

コメント

タイトルとURLをコピーしました