車両のコンピューターナンバー導入
まだ汎用コンピュータが高価だった1960年代、DB/DRでは機関車などが整備・更新をうけたり、配置場所が変わったことにより台帳のデータを更新するときに、誤って違う機関車のデータを書き換えて上書きしてしまうトラブルが相次いだらしいです。
このトラブルを防ぐため、書き換えようとしている機関車の型番、車両番号の末尾にチェックデジットを付加し、都度演算したチェックデジットが合っているならば台帳のデータを更新するという仕組みが導入されました。
型番は3桁で表示するようにし、最後にはハイフンのあとにチェックデジットがつくようになりました。ただ、せっかく共通の演算方法を決めたのに、DBでは電気機関車を100番台、ディーゼル機関車を200番台と決めたのに対し、DRでは電気機関車を200番台、ディーゼル機関車を100番台としていました。

チェックデジットの演算ルールが無駄に面倒。番号付けルールまで東西対立。こんなところまで対立してどうするのかと思います。
西ドイツDBの状況
TEEの経験を活かしF-ZugからInterCityへ
西ドイツでのInterCityのはじまり
1957年のTEE運行開始から10年、本来TEEは国際列車でしたが、国内優等列車もTEEの名で運行されるようになり、西ドイツDBではTEEの運行によって得られた経験から国内のF-Zugのサービスを向上する機運が生まれました。


1968年冬のダイヤ改正で、DBでは6往復のF-ZugをInterCity A ~Fの名で呼ぶようになりました。当初車両はBR601(旧VT11.5)気動車の利用が多く、そのほかにGruppe63のTEE用高級客車をBR10.12電気機関車で牽引する場合もありました。しかし、BR601では需要の変動に対応して編成を柔軟に変えるのが難しいことから、より自由度の高いGruppe63の客車列車に置き換えが進みました。
1969年、DBではInterCityという新たな種別を作ることを決定しました。ポリシーとしては、車両の等級は一等のみでTEEなみのサービスを実現すること、西ドイツを南北に縦断する4つの経路を設定し、それぞれ2時間間隔のパターンダイヤで運行すること、主要駅での乗り換えの利便性(同じホームの左右で乗り換えできる等)に配慮することを掲げ、1971年から運行を開始しました。写真はBR103の103号機に牽引される全車一等のInterCityです。


しかし、当初はGruppe63の客車の数が十分になく、実際には代わりにGruppe61のAm203を使うこともあったようです。
1979年のInterCity改革
TEEが開始された当初、国際列車の利用者の階級意識は根強く、一等車利用者は二等車利用者と長時間同じ列車で移動することを嫌ったようです。

特に食堂車には一等車二等車の両方からお客さんが集まります
しかし、1970年代には人々の意識が変わり一等車の人気は薄れ、むしろ長距離を安価に旅行できる二等車のニーズは高まる傾向にありました。そこで1976年から一部の列車で試験的な二等車連結を踏まえ、1979年にはすべてのIinterCityが二等車を連結し、2時間おきだったダイヤは1時間おきになりました。これを”Jede Stunde, jede Klasse“と呼んでいました。二等車としては、Ozeanblau(RAL5020)/Elfenbein(RAL1014)に塗られたUIC-XのAbteilwagenであるBm234を時速200km対応に改良したBm235が使われました。
写真は1980年、Kölnの駅に停車したInterCityです。


せっかく改良されて連結されたUIC-XのBm235ですが、快適さの水準が、1980年代にははや色あせてきていました。特に時速200km走行する客車で手動窓開け・エアコン無しというのは問題でした。

すいてるときにAbteilを専有して窓から写真を撮るには良かったんですが…
機関車、客車の近代化
快適なGroßraumの二等車 Bpmz291の開発
1979年に、Bm235がInterCityに組み込まれましたが、快適さの点でやや古さが気になり始めました。そこでDBは二等車を刷新すべく、思い切った内装テイストを持ったGroßraumのエアコン付き二等車を作りました。Bpmz291は短く軽量なMD52台車を持ち、主要な窓は1400mmの幅でした。これは1960年代におそらく航空機を意識したであろう、細い窓が個々の座席に対応して並んでいたGruppe63の一等Großraumwagen Apmz121 とは対照的でした。


私には、座席を「黄色」にする発想が斬新で、クラクラしたのを覚えています
Apmz121では座席は回転式になっていましたが、Bpmz291は日本で「集団見合い方式」と呼ばれる、禁煙室喫煙室それぞれの中央位置にあるテーブル席にむけて並ぶ座席配置が取り入れられました。窓は全閉ではなく、室端の細い窓と、テーブル席の窓だけ、内側に倒して開けることができました。
新機軸の電気機関車、BR120の開発


DBは1970年代に進展してきた半導体技術を使い、三相誘導電動機をインバーター制御するVVVFに挑戦しました。その成果として高速新線で200km/hの旅客列車を牽引したり、重量貨物列車を牽引したりできる万能機関車を求めました。16年をかけて実験・開発されたBR120は期待の新星でしたが、1970-80年代のパワーエレクトロニクスの限界で、「性能はぎりぎり出せるけど無理が効かない」機関車として完成しました。当時としては最新の技術を導入したためコスト的にも高価となり、DBの期待を裏切る結果となってしまいました。
しかたなくDBは、BR120の量産を60両で打ち切り、BR103に高速新線対応改造を施して延命措置を行いました。しかし、当初BR120に期待されたインバーターのVVVFで三相誘導電動機を動かす仕組みは2000年代になってBombardier(のちのALSTOM)のTRAXX、SIEMENSのTaurusやVectronという形で結実し、高速でも重量貨物でも使え、国境での繋ぎ替えが必要ない万能の電気機関車が作られるようになりました。そういう意味では長い時間をかけて開発されたBR120の経験は無駄にはならなかったと思います。
郊外の路線の状況
郊外では、Umbauされた時点でもうシャーシが40年くらい経っていた3yg, 4ygは退役の時期を迎えていました。機関車はBR110,BR111, BR141,V60,V80,V100そして名機BR218が大活躍していました。Orientrot(RAL3031)で真っ赤に塗り、正面にホームベース型の白い前掛けを入れるデザインは、四角いBR110の場合には卵型のBR103よりは似合うように思います。



私が1973年に模型で手に入れたBR110が、色を替えただけでまだ現役!
City-Bahnでの経験とSilberlingの改装

このころ、Silberlingは、運行されている地域によって違いはありましたが、パイプで作られて維持に手間のかからない合皮がかけられたシートはくたびれて、換気があまりよくないためすっぱい匂いが抜けない感じになっていました。

1984年頃、DBでは廃業の危機にある小路線を救うため、Silberlingをモダンに改装して魅力を高める挑戦をしていました。KölnのCity-BahnではBR218機関車がSilberlingとおそろいのLachsorange(RAL2012) / Lichtgrau(RAL 7035)に塗られ、内装もモダンに改装され成功しました。
1980年代末にかけ、City-Bahnの経験から、DBではいくつかの車両デザイン会社(Design Hannover, Fervet-Design, PFA-Design, OFV-Design)にSilberlingの改装を依頼し、それぞれ現代的なシャープな内装デザインがうまれました。
列車種別による色分け Produktfarben der Deutschen Bundesbahn
1987年から、Produktfarben der Deutschen Bundesbahnという考え方が採用され、客車の外観ペイントが明るくなり、一目で列車種別がわかるようになりました。白をベースとして窓と窓下に種別を示す色の帯をつける方法です。主なものは
| 列車種別 | 色 | 実例 |
|---|---|---|
| ICEとInterCity | OrientRot(RAL3031)/Pastelviolett(RAL4009) | ![]() |
| InterRegio | Fernblau(RAL5023)/Pastelblau(RAL5024) | ![]() |
| Nahverkehr/RegionalBahn | Minttürkis(RAL6033)/PastelTürkis(RAL6034) | ![]() |
| S-Bahn / City-Bahn | Lachsorange(RAL2012) | ![]() |
City-Bahn以外、それまで生のステンレスに鱗模様だったSilberlingはここで、Minttürkis(RAL6033)/PastelTürkis(RAL6034) に塗られはじめました。

無塗装が特徴だったSilberlingにも色を塗ることに。
参考:Trans PressのAndré Papazian著 BUNTE BUNDESBAHN(ISBN 978-3-613-71379-6)という本が、EpocheIIIからEpocheIVのProduktfarben という1980~1993年の色の変化を追える資料になっています。
OrientRotのBR103に牽引されたInterRegio zug

角張ったBR110系の機関車ではそこそこ似合っていたのですが、卵型のBR103をOrientrot(RAL3031)で屋根まで真っ赤に塗り、前掛けをかけるスタイルは、日本のファンの間では必ずしも評判がよくありませんでした。ドイツでもそうだったのか、Epoch IV以降になっても残ったBR103のいくつかは、塗り替えられることなくPurpurrot(RAL3004)/Elfenbein(RAL1014)の色のままでした。
東ドイツDRの鉄道の状況
1979 年の路線延長は 14,164 km で、そのうち電化されたのは 1,621 km のみであり、合計 290 km が狭軌路線でした。1970年代から1980年代のDDRの写真は、以前はなかなか見ることができませんでしたが、Michel Huhardeauxさんの貴重な写真からいくつか紹介します。
Saalfeld 1979-1980
1979年のSaalfeldの写真です。DRのBR118に牽かれているのは、Ozeanblau(RAL5020)/Elfenbein(RAL1014)色のABm225とBm234でしょう。鉄のカーテンは閉じられていましたが、そこを通過することのできるInterzonenzugは、たしかにあったようです。

1980年のSaalfeldです。まるでEpoch IIの模型Anlageみたいな雰囲気ですが、客車が箱型Rekowagenであるため戦後だとわかります。SonderzugでもMuseumszugでもなく、日々利用されている列車として、この鮮やかな赤い車輪でWagner式除煙板をつけたBR01同士がすれ違ってる風景なんて、夢のようです。

Nordhausen 1980
1980年のNordhausenです。手前が BR44 0264-0, BR44 0546-0です。いずれも石油焚きです。 DRのWitte式除煙板は、取り付け位置がやや上で、ハの字に広がっているので、犬の耳のように見えます。
なおこれらのBR44はRekoプログラムの対象にならなかったため、のちに東ドイツのDRのRekolokの見分けのポイントになる角型Mischvorwärmer(混合予熱器)が煙突前につけられていません。

東ドイツDRのEpoch IVの車両
電気機関車
DR BR250
BR250は、DRで1974年から1984年にかけて生産された6軸の貨物用電気機関車です。統合後はBR155となりました。その角張った外観から“Hochleistungscontainer(高性能コンテナ)”とあだ名され、また東ドイツならではのあだ名として“Stasicontainer(シュタージのコンテナ)”とも呼ばれていました。これはDRにおいて最高出力を誇る機関車でした。
DR BR243
BR243は東ドイツで原油価格の上昇が問題となった1976年以降、BR250をもとにLokomotivbau Elektronische Werke Hans Beimler Henningsdorf, LEW) で開発された汎用電気機関車で、600両以上が生産されました。

のちのドイツ統合後、一部がFreiburg im BreisgauやDüsseldorfに送られ元西側DB領域で運行できるかテストされ、そこでの評価が良かったため、Schwarzwald, Höllental, Rhein-Ruhr S-bahn, Dortmundなどに多くが送られました。統合後のBR143は重連運転用の制御装置ZDSを持ち、重連運転で重量貨物にも、郊外のWendezug運転用にも使いやすい機関車だったため、Minttürkis(RAL6033)/PastelTürkis(RAL6034)に塗装されたNahverkehr/RegionalBahn客車やDeutsche Waggonbau AG(元WUMAG)で生産されたDoppelstockwagenとともに西部地域でも広く見られるようになりました。
客車
Y/B 70型客車

1969年、Waggonbau Bautzenでは Epoch IIIのY-Wagenの設計を改良していました。以前B-Wagen やY-Wagenで圧縮空気暖房のシステムを入れるために4250mmになった異様に高い屋根は、Y/B 70ではもはや圧縮空気暖房システムを入れてないため技術的には必要ありませんでした。しかし、編成を作ったときに屋根が凸凹することを嫌ったのか、DR向け車両では屋根を下げませんでした(チェコやルーマニア向けの輸出用では屋根の低いものもあり)。この高い屋根はDRの1970年代のSchnellzugwagenのシルエットを決める重要なポイントになっています。
台車は、車輪径920mmのGörlitz VI型で、これまでの140km/hから160km/hの最高速度を可能にしました。全Abteilにインターホンがつき、時速5kmで自動的にロックされるドアを持つ車両もありました。尾灯の位置は極めて低いです。色は屋根をRehbraun(RAL8007)、窓ラインはBeige(RAL1001) 、窓下がChromoxidegrün(RAL6020)という塗り分けでした。
Halberstadt型客車
UIC-Xは西側のInterCityに組み込まれ、多くの活躍実績がありましたが、EUROFIMAなどの新しい客車が出てきて、快適性に不満があらわれてきました。そこで新時代の標準として新たにUIC-Zの規格が作られました。1980年代にDDRのHalberstadtの工場で作られたUIC-Z型の客車は、全体的に箱型、屋根も車端まで伸びて妻面がアーチになっており、窓枠は角の丸い日の字の”Übersetzfenster”で、枠の幅がわずかにUIC-Xよりも広く窓のメリハリがある感じが個性になっています。同じ26.4mの長さながら二等のAbteilがUIC-Xの12室から11室になり、わずかながら一室あたりの幅が広く余裕が作られました。シートはブルーのモケットで、Bm234のオリジナルよりは近代的な感じがします。これらはDRでは最初Schnellzug用には窓ラインはBeige(RAL1001) 、窓下がChromoxidegrün(RAL6020)といった色で使われましたが、DR/DB統合後、Fernblau(RAL5023)/Pastelblau(RAL5024)のInterRegioカラーやMinttürkis(RAL6033)/PastelTürkis(RAL6034)のNahverkehr/RegionalBahnカラーに塗られたうえ、新しい赤いDBマークをつけてよく見られました。
また、Halberstadt版のNahverhkerswagenもありました。Silberlingは車端近のトイレ付近がわずかに絞り込まれていますが、HalberstadtのNahverhkerswagenは車体幅も屋根もあくまでストレートなので見分けられます。
VEB Göerlitzの2階建て客車
Epoch IIIに四角張った2階建ての箱が連接台車に乗った形でスタートしたVEB GörlitzのDoppelstockwagenは、その後も地道に進歩をかさねます。
1974年には、連接台車だと解結の自由がなく、ニーズに応じて編成を変えられないため、連結の自由度のあがる通常の台車に乗ったものが作られるようになりました。1970年代は各部が直線的でしたが、年を経るごとにデザインの柔軟性が増してきて、屋根などが丸みをおびてきます。
東西ドイツの統合後、1992年にVEB Görlitzは民営化しDeutsche Waggonbau AGになります。

1993年、Deutsche Waggonbau AGは短編成でも収容力の高い二階建ての合理性に目をつけたスイスのS-BahnにDoppelstock wagenを輸出します。


同じ時期、DBにも採用されます。
DDRでの鉄道模型製造
とかく、私の中では「西側の技術のコピーばっかり」「食うにも困っていた」「カサカサの石鹸など生活必需物資の品質が悪くかつ不足していた」というイメージの強いDDRですが、鉄道模型産業は連綿と続いていたようです。写真は1971年の Zeuke & Wegwerth という鉄道模型メーカー(のちのTillig)のTTの客車製造の現場です。


BautzenのUIC-Y wagen (Y/B 70)ですね。
写真を見ただけでも、1970年代はじめに私が触っていた西側のMärklinのH0よりも精密感があり、むしろ現代の鉄道模型に近いように見えます。裾の印字も細かいですが、妻面の左右下のケーブル収納部の凹みは、当時のMärklin H0では再現されていませんでした。
André Papazian BUNTE BUNDESBAHN Die Farbigen Jahre der DB 1980 bis 1993 Trans Press(2010) ISBN 978-3-613-71379-6





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