牛たちがのどかに草をはむ、Bayernの緑の中を、二軸の小さな凸型電気機関車が大きなSilberlingを牽いて山裾をトコトコ走る… 早くから電化が進んだBayernならではの風景。
この風景の主役となった小さなE69型の電気機関車たちは、一両一両、愛称をつけられて地域の人たちから愛されてきました。
彼女たちは同じ規格にもとづき、地元のメーカーで製造され、ずっとのどかなBayernの山のもとでゆったりと走っていたのかと思いきや…
その中に、一人だけ、都市で生まれ、違っためぐり合わせの末Bayernにやってきた機関車があったのでした。ここでは彼女の数奇な運命をたどります。
物語のはじまりは1899年、ところはBayernのはるか北、Berlinの軍事鉄道の高速実験線でした。
1899年-電気高速鉄道調査会社 “StES”
1800年代末期、すでに多くの都市で直流電力を動力とする路面電車が走っていましたが、長距離の急行列車はすべて蒸気機関車に牽引されていました。
理論的には、交流を使えばトランスで電圧を変換できるので、長距離の伝送は高電圧、使う直前で必要な電圧に降圧すれば、路面電車をはるかに越える長距離かつ高速の鉄道に応用できるはずでした。
すでにこの時期、フランスやスイスでは登山鉄道建設ブームが始まっており、そこでは三相交流を2本の架線と線路を利用して集電する方法が実用化されていました。


三相交流は電力効率が良く、当時の技術でもトランスのタップ切り替えにより電圧の切り替えは実現できました。しかし登坂することが目的で速度の遅い登山鉄道ではなく、平地の高速鉄道を周波数変換なしで任意の速度で長時間走らせることができるのかは未知数でした。ほかにも、三相交流はどうすれば安全に集電できるのか、インフラは合理的なコストで作れるのか、試してみたいことがたくさんありました。
1899年10月、「三相交流による高速鉄道の可能性」というテーマを研究するための”Studiengesellschaft für Elektrische Schnellbahnen”(電気高速鉄道調査会社)略して”StES”がベルリンに設置されました。目的は研究でしたが長期的な利益の可能性の見極めもあったと思われます。株主はAEGとSiemensという電機大手2社と銀行4社、Borsigをはじめとする機械3社でした。
Preußen軍事鉄道試験線
1900年当時、すでにBerlinには都心から南に伸びる軍事鉄道線があり、特にMarienfeldeの少し北からZossenの間の、BerlinとDresdenを結ぶ幹線と平行した区間は高速試験に適用できそうな直線が23km続いていました。



電気高速鉄道調査会社StESでは、陸軍大臣に許可を得て、この線区を路盤を改良し、三相交流を供給できる垂直三本の架線を設置しました。当初80km/h迄しか承認されていなかった線路は、度重なる改良で200km/h超の運転に耐えられるまでになりました。
鉄道技術者でノンフィクション作家のKurt Piersonは、この路線を 「世界で最もよく整備された上部構造を持っていた」と書き、シニアエンジニアのHornは「最高速を出していても、窓辺に置かれたグラスの水がほとんど動くことがなかった」と言ったそうです。
当時は鉄道を兵站に使うため、戦闘地域で鉄道線路を敷設したり、爆破されたのを補修したりするために、軍には「鉄道連隊」がありました。この世界最高と言われた路盤は彼らの手によって改良されました。
架線は、線路中央上方ではなく、線路中央から1.45mシフトした位置に上下3段に張られました。一番下の架線は高さ5.5m、一番上は高さ7mもありました。

これだけ高いとトンネルや立体交差構築は大変です。あと、分岐時にはどうやって対応していたのでしょうか???
三相交流を供給したSpree川の火力発電所
Berlinの東側、Spree川沿いにある発電所 Kraftwerk Oberspreeで、川から汲み上げた水を沸かし、蒸気機関のピストンで発電機を回すことで実験に必要な三相交流を発電しました。専用だったためStESのリクエストに応じて電圧や周波数を変えられたようです。
三相交流試験車両
Siemensの高速試験電車
1軸のポールにビューゲルが3本装着されています。14,000Vの三相交流を受電するのに裸のビューゲルがこの距離で設置されているのは、構造や風圧に対してのSiemensの自信を伺わせます。車内に重量12tもある三相用のトランスが搭載され、タップで電圧を下げ、モーターの駆動電圧435~1150Vを得ました。この電車が1903年に 210.2km/hの高速世界記録を樹立しました。

AEGの高速試験電車
AEGの電車は安全志向に振ったのか、一つ一つのビューゲルをそれぞれ専用の軸に固定しています。車内に2セットで6.5tある三相用のトランスが搭載され、タップで電圧を下げました。モーターの駆動電圧はSiemensと同じ435~1150Vでした。この電車は1903年に 高速世界記録にならぶ206km/hを出しました。後ろにKummersdorf-Gutの駅が見えます。

耐圧10,000Vのモーターを持つ電気機関車
電車の他に、4軸の電気機関車も試験されました。Siemensの単軸式3段ビューゲルを持つこの電気機関車は、車上トランスを経ず、給電された電圧を直接モーター駆動に利用する試験に使われました。何度かの試行のあと、給電電圧10,000Vでモーターを駆動して時速120kmに達しました。

写真の左側ボンネット上にはBauart Groweの換気ユニットがたくさんついています。
駅舎など
Militärbahnhof Marienfelde
当時試験車両の留置場からの引き込み線があったMilitärbahnhof Marienfelde。現在のS-BahnのMarienfeldeの駅よりも数百m南にあります。なお現在、Marienfeldeの東側は巨大なMerzedes Benzの工場が立地しています。


Militärbahnhof Zossen
2018年のBahnhof Zossenです。現在も、Regional-Express5とReginal-Express7の駅として使われています。
2009年には、ここで1903年に世界速度記録が達成されたことを示す銘板が駅舎に埋め込まれました。
旧王立Preußen軍事鉄道はZossenまでの直線区間は、BerlinとDresdenを結ぶ幹線と平行していますが、Zossenを過ぎると西にカーブして、鬱蒼とした林の中に旧軍事施設が散在するエリアに入ります。

Militärbahnhof Kummersdorf-Gut

AEGの電車の背景に写っていた、Kummersdorf-Gutの駅です。Zossenで分岐したあと南西に進んだところにあり、Militärbahnhofの特徴的なファサードとともに、塔屋を持ちます。

プロジェクトの終了
試験的な高速記録こそ出せたが
1905年、世界最高速記録と試験データ、高速に必要な技術の蓄積を得て、電気高速鉄道調査会社StESはその役割を終えて解散しました。
結果として、三相交流を使った電車で試験的に世界最高速を出すというエポックメイキングな記録が得られ、しかも競合する電機会社の両方でほぼ同じ速度が達成できました。
しかし、その後3段架線と3段ビューゲルによる三相交流高速鉄道は、作られることはありませんでした。それは、実際にインフラを構築・維持するコスト、運用・保守性・安全性のいずれもが割に合わないという知見が得られたからでしょう。
一方、15,000V 16 2/3Hzの単相交流の供給とカーボンブラシを使う整流子モーターによる電化は、機関車のメンテナンスが面倒という問題を持ちながらも、インフラ面、安全面で勝り、その後着々と広がっていきました。
高速記録を作った2両の電車の末路
試験電車はBerlinの交通博物館に寄贈されたと言われていますが、スペースが不足していたため展示できず、第二次大戦の爆撃で2両とも失われてしまったようです。
実物は失われましたが、Siemensの電車のモデルがDeutsches Museumにあります。
4軸電気機関車の分割

一方4軸の電気機関車は、2両の電車のように、一般にわかりやすい画期的な記録を出すこともなくプロジェクトが終了し、10余年のあいだBerlinのSiemensstadtに放置されていました。Siemensは第一次大戦後、放置されていた電気機関車を真ん中から切断して直流用と(単相)交流用の2軸の機関車2両にすることにしました。

ニコイチの逆!
真ん中で切断した結果、前後非対称のアイロン型機関車が2両生まれました。切断前の写真の右側の部分は直流用に改造されて、Siemens Güterbahnの3号機関車となりました。この機関車は1980年代末まで Berlin Seimensstadtのケーブル工場で作られた重い電線をSpree川の Nonnendammに出荷するのに使われました。


もう片方は、同様なアイロン型でしたが、単相交流仕様にされました。切断前の写真で左側の部分で、ボンネット上にBauart Groweの換気ユニットがたくさん生えた奇妙な形でした。
こちら半分は普段は仕事がなく、臨時の作業が発生したときにたまに利用される程度で、しばらくSiemensに留置されていたようです。
ところが、1922年、遠く南のBayernの私鉄Lokalbahn Aktien-Gesellschaft(LAG)から小型の電気機関車を買いたいというオファーがあり、この交流仕様のアイロン型の「片割れ」は、BerlinからBayernへの旅に出ることになります。
Bayern
山間の私鉄とキリスト受難劇
ときは戻って舞台は1887年のBayern、Garmish Partenkirchenに近い、MurnauからOberammergauを結ぶ山間の私鉄に移ります。


Oberammergauは、家々の白い外壁に精緻で立体感あふれるフレスコ画が描かれる山里の地で、多くの木彫り職人がいます。


1632年のペストの世界的大流行のときにOberammergauは奇跡的に病疫を免れました。これを神の御加護だと考えた村人たちが始めたのが、「Oberammergauのキリスト受難劇」の上演でした。10年に1度、村人たち自身がキャストやスタッフになる形で上演するという伝統が、かれこれ400年近く続いています。この劇が上演されるとき、世界中から観光客が集まることは、この地に早くから鉄道が必要とされた理由の一つでした。
MurnauからOberammergau間の私鉄の電気鉄道は、1887年Bayernで設立された機関車製造・鉄道経営・観光を総合的に手がけるLokalbahn Aktien-Gesellschaft(LAG) が運営する鉄道路線の一つとして生まれました。LAGは電化にとても積極的で、1905年、Murnau-Oberammergau線についてはドイツで最初の単相交流5,500V16Hzによる電化を採用し、そのための発電所建設まで行いました。
ドイツ最初の交流電気機関車 「LAGの5姉妹」
1号機 Katharina (後のE69 01)


LAGでは1905年に交流電気機関車LAG 1を導入しました。単相交流5,500V16Hzの、ドイツ初の営業用電気機関車でした。内蔵電気機器が小さかったため、ボンネットのサイズが小さくすっきりした形状でした。1921年に妹のPaulineと衝突する事故があり、1935年にオーバーホールを受けましたが、その後の改修は経済的とはみなされず、1954年に退役しています。2022年現在、Lokwelt Freilassingに展示されています。
2号機 Pauline と3号機 Hermine (後のE69 02と03)
Oberammergauへの観光客は順調に増えました。1910年のOberammergau受難劇の上演時の観光客の増加を見越し、LAGでは追加の機関車を調達しました。1909年、LAG 2(Pauline)が就役しました。
つづいて1912年にLAG 3(Hermine)が就役しました。この2両はLAG 1(Katharina)よりも強力な駆動機構をもっており、外観は角が立ってソリッドな形になりました。
彼女たちはよく模型化されています。
4号機 Johanna (後のE69 04)
1921年、KatharinaとPaulineが正面衝突して数ヶ月運行停止になりました。なんとか修理はできそうでしたが時間がかかってしまうため、LAGでは代わりの機関車を求めました。それに応えたのがSiemensだったのでした。1922年、Siemensは半分に切断して単相交流駆動にした電気機関車の「片割れ」をBayernへ送り出しました。
届いてみると、それはアイロン型でひさしが奇妙に長く、Bauart Groweの換気ユニットがボンネットの上ににょきにょき生えた、みにくいアヒルの子のような機関車でした。
“>>Halbe Lok<< LAG 4” via Michas=Bahnhof © Foto:Sammlung Mühlstraßer
8年の間、LAGでは”Halbe Lok(片割れ機関車)” と呼ばれたその機関車を奇妙な形のまま運用しましたが、トランスが火を吹いて1930年からMünchenのすぐ南のTahlkirchenで休車状態になりました。その間に、LAGは新しい機関車 LAG 5(Adorphine)を調達してしまいました。
1934年、LAGはOberammergau受難劇の観光客に備えてLAG 4も利用することを決めました。Kraus-Maffei社がこの機関車を改造することになり、はじめて姉妹とおそろいの中央に運転室のある凸型の外観が与えられました。Berlinで三相交流試験機として生まれてから実に30年が経っていました。機関車はJohannaと呼ばれ、その後E69 04(のちのBR196 004-9)として1977年まで利用されました。
Bayernの緑の山裾を、小さな機関車が大きなSilberlingを牽いて走る姿は鉄道ファンのみならず多くの人から愛されました。
1977年に退役後、JohannaはMünchenのDB中央局の前に記念碑として置かれましたが、経営の苦しいDBが1997年に土地を売却したため、かつて活躍したMurnauの地に戻ることになりました。誕生から95年、凸型に改造を受けてからも63年が経った彼女は、もはや線路上を自走することができませんでした。ローローダートレーラーの荷台に載せられて道路で移動することになりましたが、このとき、地元の多くの人から多額の寄付があったということです。

愛を感じるなあ
こうして、E69 04 Johannaは、Murnauをその終の棲家とすることになりました。
5号機 Adorfine (後のE69 05)
LAGは1930年に末の妹のAdorfineをMaffeiから購入しました。1930年にもなると、Maffeiも電気機関車設計のノウハウが蓄積し、ボンネットの高い堂々としたプロポーションの中に、強力な駆動機構と安全装備が整えられました。Adorfineは1953年にドイツ標準の15kV 16 2/3Hzに改造され、1954年にAmmergau鉄道が標準電気方式になるとすぐに活躍を開始しました。追ってJohnanaや上の姉妹も電気方式の改造を受けました。Adorfineは1981年にDBの営業運転から退役しましたがBayerischer Localbahn Verein e.V.(Bayern地方鉄道協会)が購入し、列車制御システムPZB 90を装着されていつでもDBの線路上で運転できるようになっています。
その後のE69 04 Johanna
2004年にBayern州の歴史的建造物に指定されたE69 04 Johannaは、Murnauのオレンジ色の駅の前に、信号機や架線柱とともに記念碑として静態保存され、ボランティアにより維持管理されています。ときおり、運転室が一般公開されています。
下は2022年5月26日にAdorphineがJohannaを訪問したときの動画です。AdorphineはPZB 90を装着して現代のDBの線路上を走る条件をクリアしているとはいえ、87歳と高齢のため、Locomotionの青ゼブラ模様のBR110が補機についています。
Bernd Muehlstrasser Die Baureihe E 69 EK-Verlag (2005). ISBN 10: 3882551690 ISBN 13: 9783882551693
Die Bahnhöfe der Königlichen Militäreisenbahn https://museum.teltow-flaeming.de/kme/bahnhoefe/
KURATORIUM Die Denkmallok E 69 04 „Johanna“ https://www.kuratorium-e6904.de/die-denkmallok-e69-04-johanna/
Machas=Bahnhof Die Lok E69 04-Berlin? Murnau? Oberammergau? https://www.michas-bahnhof.de/wissenswertes/die-lok-e69-04-berlin-murnau-oberammergau
Lok Magazin “Die Baureihe E69” https://lok-magazin.de/leseprobe/die-baureihe-e-69
www.eisenbahnarchiv.de Baureihe -E 69 https://www.eisenbahnarchiv.de/bibliothek/deutschland/lokomotiven-locomotives/e-loks-bis-1945/e-69/
Wikipedia Studiengesellschaft für Elektrische Schnellbahnen https://de.wikipedia.org/wiki/Studiengesellschaft_f%C3%BCr_Elektrische_Schnellbahnen



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