人物-Friedrich Witte(1900-1977)

Person
"Steamtrain DB 66002-2" May 2005 by DocWölle, Public Domain

Witteのおいたち

「Witte式除煙板」と呼ばれるKessel左右にある小さな除煙板の名前とともに記憶されているFriedrich WitteはGöttingenの門番の息子として 1900年に生まれました。彼は若い頃から蒸気機関車に興味がありました。 Witteは1919年から1923年までHannover工科大学で機械工学を学び、1926年にDRGのHannover管理局に就職し、後にBerlinのDRG本社に移り、そこでWagnerの研究助手になりました。

当初、Wagnerは若いWitteを応援していたようですが、1937年頃、米国の技術動向を視察してきたWitteが極めて熱効率の良いVerbrennungskammerkessel(燃焼室型ボイラー)の考えを提唱し、これに基づく合理的な機関車の設計アイデア(戦後のDB BR23のドラフト)を主張しはじめると保守的なWagnerはその考えを否定し、二人は徹底的に対立する場面を迎えました。

過酷な第一次大戦の賠償の枠組みを緩和するために設定されたドーズ案にもとづき連合国の管理下の会社として発足したDeutsche Reichsbahn-Gesellschaft(DRG)でしたが、1933年にナチスが政権をとると鉄道を国家社会主義の根幹とみなしたナチスは1937年に再び国有にし(本ブログではこの時期をDRBと表記します)、次第に干渉を強めていきます。

ナチスがDeutsche Reichsbahnに影響力を増してくることを苦々しく思っていたWagnerとは違い、Witteはこの時代のDeutsche Reichsbahnの中で生きていくにはナチスと折り合いをつけるしかないと考え、1937年にナチス党に入党しました。

Wagnerの解任とWitteの下剋上

“Bundesarchiv, Bild 183-N1213-371” “Orscha” Februar 1942 by Donath, Herbert via Wikimedia Commons, Licensed under CC BY-SA 3.0

1941年、ドイツはソ連に攻め込みます。ドイツは鉄道による軍需物資の補給を考えました。ソ連は広軌で、彼らの残したレールと機関車・貨車を補給に使うつもりならポーランド国境で積み替えが必要ですし、ドイツ仕様の機関車・貨車をそのまま補給に使うならレールを外して9cm内側に付け替える作業が必要でした。いずれの方法にしても、設備と労働力がかなり必要ですが、それまで電撃戦で連戦連勝だったドイツは、ソ連軍は何もかも放り出して逃げるだろうから東部で徴用した労働力を使えば現地でどうにでもなると高をくくっていたようです。ところがソ連軍は潰走時に車両と設備をほとんど持ち去り、ドイツに自由に使わせる事はありませんでした。そのうえ、線路さえ撤去したり爆破していったそうです。そんな事情もあり、東部占領地域でのドイツの鉄道輸送は破綻し、鉄道を利用した補給は大失敗となりました。

そして冬がきました。かつてGarbeの基準で作られたPreußen仕様の機関車たちは、ドイツとは桁違いのソ連の最低気温零下42℃という寒さの中、配管の水が凍りつき、次々と動かなくなりました。前線の将兵に送られた冬の防寒着や弾薬の入った貨物は途中駅に留め置かれていつまでも前線には届かないのでした。

もともとナチスと反りが合わなかったWagnerは、独ソ戦の最初の冬、鉄道による輸送破綻の責任の一端を問われて、機関車設計局の局長を半強制的に解任されました(公式には1942年6月1日に健康上の理由で自主的に辞職したことにされている)。

一方、すでにナチス党に入党し、「Germania」計画で軍需大臣Speerの知遇を得ていたWitteは、1942年10月にWagnerに入れ替わるように機関車設計・製造の責任者になりました。

Witteの任務

人事の面だけでなく、設計業務の面でもWitteはWagnerと入れ替わりました。設計責任者としてのWitteの最初の重要な任務は、「Kriegslok(戦時型機関車)」BR52を開発することでした。Witteは、かつてWagnerが設計した制式機関車BR50の構成と製造工程を徹底的に見直し、給水加熱器、シリンダー安全弁、手すりなどの保安系の装備を除去または簡略化しました。また電気溶接を多用し、仕上げ作業を最小限にとどめて工作時間を節約しました。材料も鋼の代わりに一部プラスチックさえ使いました。こうしてBR52は軸重15tを達成し、占領地域の劣悪な路線でも走れるようになりました。実際に完成した数は6,000両を越えました。

“Germany Rail 016 Hamm 3” 1953 by Brooksbank via Wikimedia commons, Licensed under CC BY-SA 4.0 / No modified

Witteタイプ除煙板

WitteはBR52の設計で、徹底した鋼の節約のために除煙板そのものを省略しました。しかし、煙が機関士の視界をさえぎったため、Witteは、Wagner時代の大きな除煙板より材料と加工の手間が極めて少ない小型の除煙板を開発しました。最初は板をそのまま取り付けたのですが、のちにわずかな曲面にするようになりました。これがその後、DR、DB問わず多くの機関車に装着されている「Witteタイプ」と呼ばれる除煙板です。

戦後のWitte

1945年3月、敗色濃いなか、Deutsche Reichsbahnの職員は設計書類をBerlinから運び出し、Gettingenに退避しました。第二次大戦を生き残ったWitteは1948年、Mindenに新設された機関車製造部門を引き継ぎました。

1949年、西側の新生Deutsche Bundesbahn(DB)はPreußen P8にかわる旅客機関車を必要としていました。かつてWagnerに邪魔されたBR23のアイデアを実現するチャンスがやってきたのです。1950年、BR23が最初の戦後DBの機関車として作られました。これにつづいて、BR82, BR65,BR66といったWitteの設計思想に基づく機関車が作られました。これらの機関車の外見の特徴は、Verbrennungskammerkesselを採用するため、比較的細身のKesselがPufferbohleに対して非常に高い位置にあり、ヘッドライトがランボードから吊り下げられる形になっていることです。

“23 071” by Erik Baas via Wikimedia Commons, Licensed under CC BY-SA 3.0

Witteは1957年、MindenのDB中央局の副社長に任命され、1965年に引退し、1977年に亡くなりました。

独ソ戦のあとKriegslok BR52を設計し、戦後も鉄道人として一線で機関車設計をしたWitteが、私が鉄道模型を手にしたころまだ存命だったということに、歴史のつながりを感じます。

参考文献

鴋澤 歩 「ナチスと鉄道 共和国の崩壊から独ソ戦、敗亡まで」NHK出版新書663 (2021) ISBN 978-4-14-088663-2

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